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戦後70年、そして現代の自分たちに広がる戦争

  • そたさん
  • 2015年8月16日
  • 読了時間: 4分

今から遡ること70年前の1945年、日本は降伏し、終戦と相成りました。

戦後70年と言うことで多くの局で当時を振り返る番組が放送され、よく見ていました。

その中でちょっと思ったことが、現存者への質問で

「敵兵を殺すのに躊躇いはなかったのですか?」

「同じ人間を殺すということをどう思っていましたか?」

と言うのがあったのですが、そんなことを考えている余裕なんてないし、その考えがあったら兵隊になんてなれないと思います。

清掃業者が「うわ汚い。こんなの触れない・・・」と思ったら仕事である清掃が出来ないのと同じように、兵隊は人を殺せなくなります。

兵隊は人を殺すことに喜びを感じるのか。

ただの殺人鬼なのか。

そんなことを疑問に思ったことがあります。

会社に入り、仕事をして、仕事の内容を褒められる。

自分の職務内容を誉れ高く評価されることは誰でも嬉しいものです。

例えそれが、自分の望んでいない職務だったとしても。

兵隊は任務を遂行する職種であり、その任務内容が遠回りに人を殺さねばならない内容だったとしたら、職務を全うするには人殺しは避けて通れなくなります。

そして、その道を通った先に誉れ高い栄光が待っているとしたら、そこに向かうのは当然のことになってしまう。

それであっても、栄光のために人の命を奪うなんて・・・

そう思う方もいるかもしれません。

でも、兵隊の敵は敵国兵だけではないのだと思います。

当時の日本の風潮には以下のような内容があったと思います。

「兵士として徴兵されたら断ることは出来ない」

国のために敵国と戦うことが出来ること自体が誉れ高いことであると言う考え方。

断るようなことがあれば「非国民」と揶揄され親兄弟家族までもが生きていけない、いじめのようなことをされる。

「兵士になって敵兵を殺せないと上官から自分が殺される」

敵前逃亡は軍規によって厳しく罰せられます。

そのまま生きて帰っても上記のように非国民と揶揄されることでしょう。

このように、戦える民間人でさえ軍規を宛てられ、戦うことを余儀なくされた背景がある。

これが理解できた時、殺す側の兵士の心境を考えてしまって、軽く鬱になりそうでした(笑)

殺らなければ殺られる

これは自分自身も似たような経験をしたことがあります。

自分を守るために他人を傷つけてしまった。

ネット界には特に顕著であり、現代の「他人に干渉しない」と言う風潮に酷似していると思います。

傷は付けていなくても、助けを求める手を払った。

自分の求めるもののために置きやった。

そんな気分じゃないから返事をしなかった(無視した)。

上記のことによって「相手に精神的傷害を与えた」。

言い方を変えれば「殺られる前に殺った」と言える。

これらは全て「自分を守るためにしたこと」であると思うし、宛て付けだろうと言われればそうなるだろうが、考え方を広く持つと必ず入ってくる考え方ではある。

つまり、みんな生きるために必死で戦っている兵士であり、兵士ならば仕方のないことであると思う。

だからと言って「兵士なんだから相手を傷つけても良いんだ」ではない。

「止むを得ず起きてしまった事は仕方がない」と考えて欲しい。

あくまで「励行」ではなく「止むを得ず」であることを忘れないで欲しい。

人間には良心があって必ず葛藤がある。

その葛藤から逃げずに自らの答えを自らで選択し、自分と言う形を形成していってもらいたいと思う。

自分を責めることもあるかもしれないが、自分がしてしまったことだけを見ずに、「どうしてそうなってしまったのか」と言う状況までも視野に入れて考えた時に「止むを得なかった」と思えるのであればもう少し違った心持ちで時の流れに乗れるのではないかなと思う。

そして「止むを得なかった」と同時に自分を責めるだけでなく反省の意を込めて「次また似たような状況だったらどうしようか」まで考えられると更に楽に時を楽しむことが出来るのではないかなって思う。

そして最後に、

「どうせ、どんなに選りすぐった選択をしても必ず最後に待っているのは後悔」

必ず後悔はするものだから、今良いと思う最良の選択をしていくしかないんだと思う。

みなさん、忘れずに。

1945年 昭和20年 8月15日は終戦の日です。

どうか忘れないで欲しい。


 
 
 

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